心が不安定だった幼少期
小児科医を志したワケ
お母さんって何だろう、母子関係ってどんなだろう。
私は幼い頃からずっと考えてきました。外国人である私の母は、1歳の私を日本に残して母国へ帰ってしまいました。
だから私は母というものを知りません。
ですが代わりに、父や祖父母をはじめ、近くに住む親戚や知人が私を気にかけてくれ、たくさんの愛情をもらい不自由なく育ててもらいました。友達にもとても恵まれていました。
私を育ててくれた祖母は、「いつも感謝の気持ちを忘れたらあかんで。感謝が人生で一番大事やで。」を口癖のように言っていました。
祖母自身は、15歳のときに母を病気で亡くし、6人の弟妹の親代わりとなり、結婚後は大所帯の家を切り盛りしながら4人の子を育てました。さらに孫育て。家事に一斉手抜きをしないで丁寧な生活で私たちを支えてくれました。
祖母には自分の時間など全くなかったでしょうが、与えられた環境に不平不満を言わずに、健康でがんばれる体にいつも感謝して、家族に尽くしてくれました。
そんな祖母の背中をみて育った私。
私は絶対に幸せになろうと思いました。
「家族に心配させたくない。」
「可哀そうな子だと思われてたまるか。」
「誰かの世話になったり迷惑かけたりするのは絶対に嫌。」
・・・『ちゃんとした人生』を歩みたいと思いました。
自分で言うのは恥ずかしいのですが、何でもきっちりやり、友人関係もうまくいき、ハツラツとした学生時代を送ってきました。
けれども心は脆くて不安定な子でした。周囲の人の感情にとても敏感な子でした。心の不調が身体の不調になりやすい子でした。
幼少期には嘔吐が止まらなくなり、小児科で点滴を受けた記憶が何度もあります。
小学校時代には、授業中に課題が分からないという不安から、心臓が飛び出すのではないかと思うような動悸を感じることがありました。夏休み明けに教室で嘔吐してしまったトラウマから、数日学校に行けなくなったこともありました。緊張から声が枯れて出なくなることもありました。
そんな心の弱さを覆い隠すには、鎧が必要でした。
鎧になったのは、努力によって得られた「人からの評価」や「成功」でした。
ちゃんとできないと価値がないかのような脅迫的な思いが次第に大きくなっていきました。
それは誰かに言われたわけでもなく、勝手に周囲の期待を背負い、自分で自分に課したプレッシャーでした。
ガチガチの完璧主義のお陰で、勉強は得意になりました。
小児科医を志したのは、子どもの心に寄り添いたかったからでした。
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